回想・昭和六十年の遠山谷


柳 裕(やなぎ ゆう)


その一
 

 二十年前、県南の遠山谷に、二つの自動車隧道が開いた。飯田と上村を結ぶ約四粁の矢筈トンネルと、上村から南信濃村を経て静岡県草木へと結ぶ旧秋葉街道の、草木トンネルである。

 県の広報は過疎の村に風穴があいたと報じ、テレビも又、地元住民の喜びを伝えた。飯田への通勤通学が可能となったからだ。信遠産業の交流発展を県が謳うのは当然として、地元遠山谷の村々も経済や観光面での将来的展望をかなり明るいものとして描いている。小さな山村が、より大きな組織体に組みこまれていく現下の産業構造から見れば、それも必然のなりゆきなのであろうか。





 上村は、南信濃村と並んで無形文化財霜月祭ゆかりの地、かつては十二月半ばの上町を皮切りに、中郷程野と続き、一月三日の下栗で湯立神楽の神事を終った。どの祭りも仮面をつけ、神と人と、夜を徹して舞い祈り踊る伝統の民俗である。伊勢神道の湯立神楽と修験道の湯立の混ったものというが、遠山の祭りは、もうまったく山びとの行事になりきっている。

 深い沢や谷の隈(くま)から土地神たちが現れ、山びとらのその年の平安と山川の豊かな実りを加護し請けあう、そんな祭りのように私には思えるのである。神々の異形の面(おもて)は各地区の社に秘蔵され、一年に一度舞い手の四肢を得て人の世に甦る。代表的な四社のうち、木沢・上町のものは宮本辰雄氏による写真集『霜月まつり』に詳しい。一月二日の早朝から村は活気に充ち、この日ばかりは飯田在に出た中年も若者も帰村して、山村共同体幾世紀の逞しい伝統を見せてくれるのであった。現在は、なぜか十二月半ばに祭りを繰り上げているらしいが。

 二十年前の秋十月、私は親しいものたちと遠山谷に遊んだ。面たちは無論、祭りの前のひそやかな眠りについていた。けれども、神々住まう尾根のおちこちのざわめき、川のせせらぎ沢の奥から吹く風の囁きにも、すだまの声があった。中央道松川インターから飯田を掠めて赤石林道に入り、車の行違いも難しそうな川沿いの道を奥山に分け入るにつれ、すだまの声は音なく私の心を擽ったように思う。



 遠山谷は伊那峡谷の一つ東、南ア連峰が南北に走るすぐ手前の谷である。三千米級の等高線が谷の底目がけて雪崩れ落ちるのだから、遠山川添いの道から見上げる両岸の傾斜は、ほぼ四十五度はあろうか。想像を絶する急傾斜を這い登る、その遥か上に点々と人家がへばりつく。どうやって登るのかと思えば、何と稲妻形に車道をつけてある。宿の老媼(おうな)の話では、昔は水桶担いで谷底まで降りたそうな。その斜面に貼りつくように唐黍や薯、豆の畑があった。高地特有の、ねっとりと甘い小粒の薯の味は、今でも思い出す程だ。テレビ画面によく出る、アンデスの山畑のジャガイモ原種にそっくりだった。蕎麦黍はもちろんのこと、栃の実の粥や餅も作るようで、当に縄文期そのままの食生活の名残が、この谷に息づいていることを知り、不思議な感動を覚えたものである。

 その日の夜の献立は、今もありありと覚えている。メインは味噌仕立ての猪鍋で、その年四月に里近くに降りて来たのを仕留め、冷凍しておいたとのことだった。次なるは十五糎は優に越える松茸の逸物。地物である。一人一本、炉で焼いたものを己れの指で裂き、ぶっかけ醤油で食う。香り、味、何とも言えなかった。そしていも田楽があった。味噌の味よし薯もよし。雨子(あまご)のこってり飴煮と地コンニャクの刺身、色ぐろのコンニャクには不思議なうま味があって、口中にじんと広がった記憶がある。名も知らぬ山菜のおひたし、天然のナメコ汁もよかった。
 最後に、何と割箸程の太さのソバ切りが出た。口一杯に頬張って、鰹だしの利いた辛口の汁を流し込んだ。酒は喜久水、猪鍋は温まる、高地十月の冷気も吹き飛んで、酒興に任せて宿のノートに書いた一篇の詩は、遠山谷を訪れた何よりの記念となったのである。


その二へつづく) 

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